余談
2014年12月31日
父が逝ったのは12月30日。
火葬場は元日お休みなので元日にお通夜、2日にお葬式をしました。
そのため、父は大好きな家でゆっくり過ごすことができました。
それに、お正月は不幸を近所の方にもお伝えしないそうです。
普段から必要以上にご近所付き合いをしなかった父らしく、誰にも知られることなく家族と親戚だけで見送ることができました。
恥ずかしい話ですが、父が一番初めの手術をする前日、私は玉突き事故を起こしてしまいました。
病院まではあと少し!面会時間に間に合うよう、急いでいたための事故でした。
もちろん父には伝えていません。
その事故の示談がなかなか進まずいつもモヤモヤとしていましたが、保険会社から示談の知らせが届きました。
書類を見ると、示談解決日は【12月30日】
涙が出ました。
もちろん保険会社の方のご尽力ですが、父も何とかしてくれたんだろうと思います。
できの悪い娘でごめんね、本当に感謝しかありません。
火葬場は元日お休みなので元日にお通夜、2日にお葬式をしました。
そのため、父は大好きな家でゆっくり過ごすことができました。
それに、お正月は不幸を近所の方にもお伝えしないそうです。
普段から必要以上にご近所付き合いをしなかった父らしく、誰にも知られることなく家族と親戚だけで見送ることができました。
恥ずかしい話ですが、父が一番初めの手術をする前日、私は玉突き事故を起こしてしまいました。
病院まではあと少し!面会時間に間に合うよう、急いでいたための事故でした。
もちろん父には伝えていません。
その事故の示談がなかなか進まずいつもモヤモヤとしていましたが、保険会社から示談の知らせが届きました。
書類を見ると、示談解決日は【12月30日】
涙が出ました。
もちろん保険会社の方のご尽力ですが、父も何とかしてくれたんだろうと思います。
できの悪い娘でごめんね、本当に感謝しかありません。
Posted by はじめまして at
01:59
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後悔
2014年12月31日
今さらですが、後悔したことも確か。
その時の備忘録として書いておきます。
抗がん剤に伴う副作用で、投薬を中断することがしばしばありました。
抗がん剤治療の専門医に心当たりがあり、相談しなくていいのかなぁと思っていたので、相談する事を勧めればよかったのかもと思います。
父に何かしてあげたいと思い、アロマセラピストの親友に施術方法の指導を受けました。
そして、できる限り毎日施術に通いました。アロマは直接作用するもの。私の思いだけで続けて、もしかすると症状を悪化させてしまったのではないかと思ったりもしました。
母は、担当の看護師が痰を吸引して苦しむ父を見るのがとても辛かったそうで、それが寿命を縮めたんじゃないか、やめてと言えばよかったと泣きながら後悔していました。
この意識レベルでは飲み込みもできないだろうし、喉がゴロゴロなっていたのも確か。
誤嚥性肺炎予防のためには仕方なかったんだろうと思います。
そんなことも詰めて話しておく必要があると思いました。
聞きはしていないけど、姉や兄それぞれに後悔があったかもしれません。
それから、一番初めに悩んでいた「手術」について。
これはもう、父が「手術すること」を選んだように、その道しかなかったと思います。
結果、合併症の繰り返しや早い期間での再発となってしまいましたが、父はいつもその時できる限りのことをしてきたと思います。
その時の備忘録として書いておきます。
抗がん剤に伴う副作用で、投薬を中断することがしばしばありました。
抗がん剤治療の専門医に心当たりがあり、相談しなくていいのかなぁと思っていたので、相談する事を勧めればよかったのかもと思います。
父に何かしてあげたいと思い、アロマセラピストの親友に施術方法の指導を受けました。
そして、できる限り毎日施術に通いました。アロマは直接作用するもの。私の思いだけで続けて、もしかすると症状を悪化させてしまったのではないかと思ったりもしました。
母は、担当の看護師が痰を吸引して苦しむ父を見るのがとても辛かったそうで、それが寿命を縮めたんじゃないか、やめてと言えばよかったと泣きながら後悔していました。
この意識レベルでは飲み込みもできないだろうし、喉がゴロゴロなっていたのも確か。
誤嚥性肺炎予防のためには仕方なかったんだろうと思います。
そんなことも詰めて話しておく必要があると思いました。
聞きはしていないけど、姉や兄それぞれに後悔があったかもしれません。
それから、一番初めに悩んでいた「手術」について。
これはもう、父が「手術すること」を選んだように、その道しかなかったと思います。
結果、合併症の繰り返しや早い期間での再発となってしまいましたが、父はいつもその時できる限りのことをしてきたと思います。
Posted by はじめまして at
01:44
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最期のとき
2014年12月31日
2013年12月29日、父の死期が近づいていると感じていることを親友に伝えました。
そして、12月30日、病院へ向かう途中「お父さんが死んだんや」と母から連絡が入りました。
病室の父に対面したけれど、昨日の帰りに見たときと変わらない表情と温かさ。
でも、確実にもうそこには居ないお父さん。
「お父さん、さいごにおしっこしはったねん」と母。
意識はずっとはっきりしない状態だったのに、急に
「おかん、しょんべんや!!!」とはっきり言ったのだそう。
慌てて看護師さんを呼び、尿瓶で排尿した何秒か後、呼吸が不安定になり息を引き取ったそうです。
日中、はじめておむつで排尿しシーツを汚してしまったそうで、その汚名挽回だったのか?
もう少し待ってくれてたらよかったのに!
でも、なんてお父さんらしい最期。
大好きなお母さんに看取ってもらえてよかったね!
もちろん悲しいし、ちゃんとお別れを言いたかったけど、あまりにも父らしくて天晴れでした。
そして、12月30日、病院へ向かう途中「お父さんが死んだんや」と母から連絡が入りました。
病室の父に対面したけれど、昨日の帰りに見たときと変わらない表情と温かさ。
でも、確実にもうそこには居ないお父さん。
「お父さん、さいごにおしっこしはったねん」と母。
意識はずっとはっきりしない状態だったのに、急に
「おかん、しょんべんや!!!」とはっきり言ったのだそう。
慌てて看護師さんを呼び、尿瓶で排尿した何秒か後、呼吸が不安定になり息を引き取ったそうです。
日中、はじめておむつで排尿しシーツを汚してしまったそうで、その汚名挽回だったのか?
もう少し待ってくれてたらよかったのに!
でも、なんてお父さんらしい最期。
大好きなお母さんに看取ってもらえてよかったね!
もちろん悲しいし、ちゃんとお別れを言いたかったけど、あまりにも父らしくて天晴れでした。
Posted by はじめまして at
01:29
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闘病記録3
2014年12月31日
2013年12月17日
家族以外の誰にも気付かれることなく救急車で病院へ。
実は、町内の道が狭いということで大通りまで担架で運んでもらうことになりました。
救急隊員の方は、今から入院しようとする患者がかなりしっかりしているので驚いておられました。
入院して、父も私達家族も少し気持ちがホッとしたのを覚えています。
在宅では痛みのため父も母も眠れなかったので、痛み止め(モルヒネ)の持続点滴をしてもらえたのは少し安堵に繋がったのかもしれません。
実際、父の口から冗談がこぼれていました。
入院する前から下腹部がかなり腫れていて、体を動かすたびに激痛が走っているようでした。
熱も平熱になることはありませんでした。PTEGからの排液も悪臭が漂っていて、お腹の中が大変なことになっているのは分かりました。
入院後、抗生剤の点滴で排液の色も綺麗になり悪臭も消えましたが、その痛みは持続点滴でも軽減することはなくいつも眉間にしわが寄っていました。
医師が眉間のしわをみて「う~ん」とうなっていた姿を思い出します。
そういえば、モルヒネの時間量が多いわりに、意識がはっきりしていることを医師も驚いておられました。
尿道カテーテルは留置せず、排尿時は周りにいる私達を呼んで尿瓶でとっていました。
腹部の痛みの他に辛そうだったのは、消化液が上がってくること。
PTEGでは十分に排液できていないのか、嘔吐したり空えずきするのを見ていても辛かったです。
モルヒネの持続点滴でウトウトとしているけれど、ゆっくり休ませてはもらえませんでした。
12月21日ごろから交代で家族が宿泊することに。
母が泊まりのときはかなりわがままを言っていたようですが、私の番のときは自分で排液を受けたり気丈にふるまってくれていました。
それに甘えて居眠っててごめんね、お父さん。
12月26日頃から穏やかな顔に。
私「お父さん、痛くないの?大丈夫?」
父「う~ん、いたない~」
医師が「この表情を見たかった」と安堵された様子でした。
そして、12月27日に緩和ケア病棟へ転棟。
見舞いに来てくれた親戚が声をかけるとうっすら目を明けて「あぁ、おおきにぃ」と。
血圧は上が70台の日が続き、尿量もぐっと減ってきました。
手や足は浮腫と冷感あり。
頬はぽっと赤みがさして本当に楽そう。
「お父さん、わかる?」と体をゆらして問いかけるとようやく「あぁ」と。
私は、父の温かい頬を撫で、自らの意志では動かないその手を持って孫の頭を撫でさせました。
少ない期間ですが、看護師をしてきた経験から、そろそろだと感じました。
家族以外の誰にも気付かれることなく救急車で病院へ。
実は、町内の道が狭いということで大通りまで担架で運んでもらうことになりました。
救急隊員の方は、今から入院しようとする患者がかなりしっかりしているので驚いておられました。
入院して、父も私達家族も少し気持ちがホッとしたのを覚えています。
在宅では痛みのため父も母も眠れなかったので、痛み止め(モルヒネ)の持続点滴をしてもらえたのは少し安堵に繋がったのかもしれません。
実際、父の口から冗談がこぼれていました。
入院する前から下腹部がかなり腫れていて、体を動かすたびに激痛が走っているようでした。
熱も平熱になることはありませんでした。PTEGからの排液も悪臭が漂っていて、お腹の中が大変なことになっているのは分かりました。
入院後、抗生剤の点滴で排液の色も綺麗になり悪臭も消えましたが、その痛みは持続点滴でも軽減することはなくいつも眉間にしわが寄っていました。
医師が眉間のしわをみて「う~ん」とうなっていた姿を思い出します。
そういえば、モルヒネの時間量が多いわりに、意識がはっきりしていることを医師も驚いておられました。
尿道カテーテルは留置せず、排尿時は周りにいる私達を呼んで尿瓶でとっていました。
腹部の痛みの他に辛そうだったのは、消化液が上がってくること。
PTEGでは十分に排液できていないのか、嘔吐したり空えずきするのを見ていても辛かったです。
モルヒネの持続点滴でウトウトとしているけれど、ゆっくり休ませてはもらえませんでした。
12月21日ごろから交代で家族が宿泊することに。
母が泊まりのときはかなりわがままを言っていたようですが、私の番のときは自分で排液を受けたり気丈にふるまってくれていました。
それに甘えて居眠っててごめんね、お父さん。
12月26日頃から穏やかな顔に。
私「お父さん、痛くないの?大丈夫?」
父「う~ん、いたない~」
医師が「この表情を見たかった」と安堵された様子でした。
そして、12月27日に緩和ケア病棟へ転棟。
見舞いに来てくれた親戚が声をかけるとうっすら目を明けて「あぁ、おおきにぃ」と。
血圧は上が70台の日が続き、尿量もぐっと減ってきました。
手や足は浮腫と冷感あり。
頬はぽっと赤みがさして本当に楽そう。
「お父さん、わかる?」と体をゆらして問いかけるとようやく「あぁ」と。
私は、父の温かい頬を撫で、自らの意志では動かないその手を持って孫の頭を撫でさせました。
少ない期間ですが、看護師をしてきた経験から、そろそろだと感じました。
Posted by はじめまして at
00:29
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