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Posted by 滋賀咲くブログ at

余談

父が逝ったのは12月30日。

火葬場は元日お休みなので元日にお通夜、2日にお葬式をしました。
そのため、父は大好きな家でゆっくり過ごすことができました。

それに、お正月は不幸を近所の方にもお伝えしないそうです。
普段から必要以上にご近所付き合いをしなかった父らしく、誰にも知られることなく家族と親戚だけで見送ることができました。




恥ずかしい話ですが、父が一番初めの手術をする前日、私は玉突き事故を起こしてしまいました。
病院まではあと少し!面会時間に間に合うよう、急いでいたための事故でした。
もちろん父には伝えていません。

その事故の示談がなかなか進まずいつもモヤモヤとしていましたが、保険会社から示談の知らせが届きました。
書類を見ると、示談解決日は【12月30日】
涙が出ました。
もちろん保険会社の方のご尽力ですが、父も何とかしてくれたんだろうと思います。


できの悪い娘でごめんね、本当に感謝しかありません。




  


Posted by はじめまして at 01:59Comments(0)

後悔

今さらですが、後悔したことも確か。
その時の備忘録として書いておきます。


抗がん剤に伴う副作用で、投薬を中断することがしばしばありました。
抗がん剤治療の専門医に心当たりがあり、相談しなくていいのかなぁと思っていたので、相談する事を勧めればよかったのかもと思います。


父に何かしてあげたいと思い、アロマセラピストの親友に施術方法の指導を受けました。
そして、できる限り毎日施術に通いました。アロマは直接作用するもの。私の思いだけで続けて、もしかすると症状を悪化させてしまったのではないかと思ったりもしました。


母は、担当の看護師が痰を吸引して苦しむ父を見るのがとても辛かったそうで、それが寿命を縮めたんじゃないか、やめてと言えばよかったと泣きながら後悔していました。
この意識レベルでは飲み込みもできないだろうし、喉がゴロゴロなっていたのも確か。
誤嚥性肺炎予防のためには仕方なかったんだろうと思います。
そんなことも詰めて話しておく必要があると思いました。

聞きはしていないけど、姉や兄それぞれに後悔があったかもしれません。



それから、一番初めに悩んでいた「手術」について。
これはもう、父が「手術すること」を選んだように、その道しかなかったと思います。
結果、合併症の繰り返しや早い期間での再発となってしまいましたが、父はいつもその時できる限りのことをしてきたと思います。








  


Posted by はじめまして at 01:44Comments(0)

最期のとき

2013年12月29日、父の死期が近づいていると感じていることを親友に伝えました。

そして、12月30日、病院へ向かう途中「お父さんが死んだんや」と母から連絡が入りました。
病室の父に対面したけれど、昨日の帰りに見たときと変わらない表情と温かさ。
でも、確実にもうそこには居ないお父さん。


「お父さん、さいごにおしっこしはったねん」と母。
意識はずっとはっきりしない状態だったのに、急に
「おかん、しょんべんや!!!」とはっきり言ったのだそう。
慌てて看護師さんを呼び、尿瓶で排尿した何秒か後、呼吸が不安定になり息を引き取ったそうです。
日中、はじめておむつで排尿しシーツを汚してしまったそうで、その汚名挽回だったのか?

もう少し待ってくれてたらよかったのに!
でも、なんてお父さんらしい最期。
大好きなお母さんに看取ってもらえてよかったね!

もちろん悲しいし、ちゃんとお別れを言いたかったけど、あまりにも父らしくて天晴れでした。

  


Posted by はじめまして at 01:29Comments(0)

闘病記録3

2013年12月17日

家族以外の誰にも気付かれることなく救急車で病院へ。
実は、町内の道が狭いということで大通りまで担架で運んでもらうことになりました。
救急隊員の方は、今から入院しようとする患者がかなりしっかりしているので驚いておられました。

入院して、父も私達家族も少し気持ちがホッとしたのを覚えています。
在宅では痛みのため父も母も眠れなかったので、痛み止め(モルヒネ)の持続点滴をしてもらえたのは少し安堵に繋がったのかもしれません。
実際、父の口から冗談がこぼれていました。


入院する前から下腹部がかなり腫れていて、体を動かすたびに激痛が走っているようでした。
熱も平熱になることはありませんでした。PTEGからの排液も悪臭が漂っていて、お腹の中が大変なことになっているのは分かりました。
入院後、抗生剤の点滴で排液の色も綺麗になり悪臭も消えましたが、その痛みは持続点滴でも軽減することはなくいつも眉間にしわが寄っていました。
医師が眉間のしわをみて「う~ん」とうなっていた姿を思い出します。
そういえば、モルヒネの時間量が多いわりに、意識がはっきりしていることを医師も驚いておられました。
尿道カテーテルは留置せず、排尿時は周りにいる私達を呼んで尿瓶でとっていました。


腹部の痛みの他に辛そうだったのは、消化液が上がってくること。
PTEGでは十分に排液できていないのか、嘔吐したり空えずきするのを見ていても辛かったです。
モルヒネの持続点滴でウトウトとしているけれど、ゆっくり休ませてはもらえませんでした。



12月21日ごろから交代で家族が宿泊することに。
母が泊まりのときはかなりわがままを言っていたようですが、私の番のときは自分で排液を受けたり気丈にふるまってくれていました。
それに甘えて居眠っててごめんね、お父さん。


12月26日頃から穏やかな顔に。
私「お父さん、痛くないの?大丈夫?」
父「う~ん、いたない~」
医師が「この表情を見たかった」と安堵された様子でした。


そして、12月27日に緩和ケア病棟へ転棟。
見舞いに来てくれた親戚が声をかけるとうっすら目を明けて「あぁ、おおきにぃ」と。
血圧は上が70台の日が続き、尿量もぐっと減ってきました。
手や足は浮腫と冷感あり。
頬はぽっと赤みがさして本当に楽そう。

「お父さん、わかる?」と体をゆらして問いかけるとようやく「あぁ」と。
私は、父の温かい頬を撫で、自らの意志では動かないその手を持って孫の頭を撫でさせました。


少ない期間ですが、看護師をしてきた経験から、そろそろだと感じました。




  


Posted by はじめまして at 00:29Comments(0)

闘病記録2

2013年12月2日退院

「1日でも早く帰りたい」という父の強い希望に「わかりました。何とかしましょう」とケアマネージャーさんが応えてくださいました。
父は満足気でした。

家での父、数日間は入院前と同じように台所のテーブルに座って母と話したり新聞に目を通していました。
やはりそれも辛く、用を足す以外は横になっていました。

テレビをずっとつけたままだったのですが、なぜか、いつもテレビが見えない向きで横になっていました。
私「テレビが見える向きに横になったら?」
父「仏さんに足向けることになるやろう。」
テレビが見える向きになると、隣の部屋に置いてあるお仏壇に足をむけることになるのです。
そういえば、前からずっとその方向に足を向けたことがなかったことに気がつきました。


私の個人的なわがままで、私の親友3人を呼びつけ、父に会ってもらいました。
父は辛いときだったけど、仕事の話をしてくれました。
親友にはすごく気を使わせてしまったけれど、どうしても会ってもらいたかったし今でも感謝しています。
きっと、わが事のように感じてくれたと思います。


そして、日に日に腹部の痛みが強くなり、麻薬の座薬を使用し始めました。
腹部の状態は、見た目にももうカンカンに張っていましたが、今まで痛みがなかったのが不思議なほどでした。
それでも、尿瓶は拒否し、PTEGの排液袋と高カロリー輸液を引き下げながら冬の寒いトイレへ用を足しに行きました。
呼吸はとても荒く、全身全霊で動いていました。
今でもその姿を思うと涙が出ます。


「これから、どんな最期を迎えるんだろう・・・」
私も、恐らく父もとても不安だったと思います。

できるだけ痛みを感じることなく家で安らかに看取ることができればと思っていたので、医師に麻薬の持続点滴を相談したところ、

「それは管理できないので病院へ入院していただくことになります。」と。

「今の時代にそんなことがあるのか!!!」「自宅で最期を迎えたい人はどうなるのか!?」
衝撃と悔しい思いでいっぱいになりました。


痛みに対する麻薬の座薬も効果はなく、我慢も限界に達し、
「わし、病院戻るわ」と父は決めました。

病院へ行く前、家族で色んなことを話しました。
今までで一番楽しかったことは?
母に言いたいことは?
子供たちに言いたいことは?
逆に、お母さんがお父さんに聞いておきたいことは?
この時間は私達の一生の宝物になりました。

そして、12月17日最後の入院をしました。





  


Posted by はじめまして at 23:33Comments(0)

闘病記録1

2013年12月30日、父は早足で旅立ちました。
ちょうど1年前の今日です。

なかなか向き合うことのできなかった父の闘病記録。
当時の記憶が薄れてしまう前にまとめて、父の闘病も終わりにしようと思います。



2013年4月18~4月30日:急性胆のう炎


同年8月28日~9月9日:敗血症性ショック・膵炎
この時、私は帰省していました。
猛烈な悪寒に襲われ、ガタガタと震えていました。悪寒が落ち着くと体温は40度。
血圧も低下していたので、直ちに救急へ。
フラフラしながらも自分の足で病院へ向かいました。
免疫の低下した父に、感染症ほど恐ろしいものはありませんでしたが、父のがんばりと治療の効果もあって退院となりました。


同年9月21~12月2日:再発(がん性腹膜炎・腸閉塞)
退院したのもほんのつかの間、食事が摂れなくなり母と病院へ。

   「再発」でした。

医師からは、「手術をすればもう一度食べることができるかもしれない」と説明がありました。
「しかし、リスクもあり、食べられたとしてもほんのわずかな時間になる可能性は高い」と。
父は「もう一度食べられるなら手術したい」と言っていましたが、進行があまりにも早く、その機会を失いました。
  
手術の適応ではないと医師から聞いたとき、これは一番辛かった・・・。
死の宣告をうけたのも同じ。
「ほな・・・わし、年内もたへんのとちゃうか・・・。悔しいのぉ・・・。」と。
父も私達家族も皆泣きました。


  10月7日  中心静脈カテーテル(IVH)挿入
  10月31日 中心静脈ポート挿入
  11月5日  経皮経食道胃管挿入(PTEG)
          PTEGは父の入院している病院では初症例だったそうです。 


手術を断念せざるを得なくなった後は、早く大好きな家に連れて帰ってあげたい。
もう一度だけでいい、どこかへ連れて行ってあげたいと強く思いました。
父が大好きな車、目標は大阪モーターショーへ行くこと。


家へ帰るにあたっては、本当にたくさんの方に連携していただきました。
入院病院の医師・看護師、ケアマネージャー、ケアワーカー、地域の病院、医療機器担当の方、薬剤師などなど、入院中の個室がパンパンになるほどの人でした。
その中で通院手段について医師から問われると、
「先生、通院は自分で運転するからかましまへん」と父。
それには先生も「いやいや、相手もあることですから…」と驚かれました。
がんの悪液質の影響か、全身の倦怠感も強く、ベットに座っているのも辛い状態なのにどこまでも気丈な父。


この時医師は、在宅の生活も、もって1週間くらいかと思っておられたそうです。


  


Posted by はじめまして at 22:43Comments(0)

2013年4月18日 急性胆のう炎にて緊急手術

退院後、抗癌剤投与中。
脱毛と倦怠感の副作用はあるが、食欲もあり食事も少しずつ食べられていた。



-母の話より-
38度台の発熱があり、救急を受診。
胆嚢炎を起こしているため、緊急手術の運びに。
「またえらいめをしなあかん…」と、父。

手術は3時間程度で無事終了。
医師は、抗がん剤の副作用で白血球が減少したため胆嚢に炎症を起こしたのだろうと。
摘出した胆嚢は正常よりも拡大していて、周囲は壊死しているかもしれないそう。

  


Posted by はじめまして at 21:16Comments(0)